三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 雑感

 小生は日々、人生が非常に空疎であるような感じがしていて、それに、激しい孤独感を感じている。それでいて、わずかの交流する人間を皆見下してしまい、独りよがりに溺れることもままある。こんな情けない私であるが、いや、だからこそ最近になって何か超越的な、スーパーな存在にいと惹かれたることがござる。小生、具体的に某かの宗教を信奉しているということがないので、それは極めて茫漠たる所感に過ぎないのだけれど、実際に某かの宗教に入っているような人びとは、日々、特定の存在に対して祈り、また、その恩恵として心の空隙を満たしてもらっているのだろうか。羨ましきことである。

 三島にとってはそのような超越的な、自己との合一化が目指されるような存在は天皇だった訳だ。これは、戦後に生まれ、大御所タレントのような天皇しか拝したことのない我々にとっては非常に違和を覚える思想である。そこにはきっと、深い断絶があって、そも日本というものに対する感情の質もそれが激情であれ、悲壮であれ、喜悦であれ全然違ったものなのである。

 いわんや左翼をや。観念としての天皇でさえ拒絶する彼らが、神的天皇を許容できる訳がない。そして、三島の方は思想の根幹に、主体と渾然一体となって天皇がいるわけで、そもそもこの三島由紀夫と東大全共闘との議論はそれが始った時点で平行線で終わることが決まっていたようなものなのである。

 しかし、小生はこの議論が無価値であったとは毛頭思わない。いや、寧ろ五十年の時を経て、今より一層その価値は燦然と輝いているようだ。劇中で芥氏がおっしゃていたように「言葉の力が信じられていた」最後の時代。ある問題意識の下で、議論を交わし、実際に行動に出ていた左右両陣営に心からの敬意を表したいような気がするのである。

 非合法の暴力の肯定、というのが一つ、双方の共通信念としてあった。現代の、この史上最悪の平成以降の時代に於いて、この思惟はどう受け止められるだろうか。右も左もTwitter上のハッシュタグによる毒にも薬にもならない政治活動もどきの愚行をアホの一つ覚えのように繰り返す、この時代に於いて!

 この映画で議論していた人間は、本当に世界を変えようとしていた。それは主観的な物でも客観的なものでもあったが。

 自分は退歩史観信者なので、敢えて言おう。昔は良かった!と。国と学生が骨肉を掛けて、鎬を削り合っていた時代!法という些事に拘泥せずに、むしろそれを蹴破ることでのみ達成出来る目的を抱いていた人びとの時代!

 ああ、私はそれをフィルムや書籍の上で眺めることしか出来ないけれど、でもその意志をできる限り酌んで、現代に浄化させたいと切実に思っている。

                             ....いや、思うだけじゃダメだろ。行動だよ、行動。まったく、この映画から何学んだんだ......。とは言いながらも、この平和ボケの時代、独りで革命運動するのは怖くてなあ..........。この弱虫野郎!俺のバカ!!!!

 

最後に、自分が好きな言葉をば、

 

          「みんなでやれば犯罪じゃない」

 

                       真理で金言。

 

 

 ..............自分一人でこんなたれも見ていないようなこんなブログに革命カックイーな時代遅れの発言をつらつら述べている小生も、結局ネトウヨインテリゲンチャ・リベラルの亜種に過ぎないのだ、そう考えると何だか悲しくなってきた.....ので寝ます。おやすみ。